東大寺と並ぶ西大寺の大伽藍 銅瓦葺きの金堂屋根に錺金物が輝いていた
(3/3) ルーフネット 森田喜晴
緑釉瓦の参考として。テーマパークのような平安神宮。設計は伊東忠太。緑釉瓦や金の鴟尾。伊東忠太ワールドにしては控えめな表現だ。
平安神宮の緑釉瓦。光の加減によっては銅板の緑青色に見える。
西大寺資材流記帳に記載された「銅瓦葺きの裏付け」として引用されるのが、「建久御巡礼記」である。同時に「七大寺巡礼私記」、「阿婆抄諸寺略記」にも西大寺の瓦の話があるが、こちらは緑釉瓦として書かれている。藤田経世氏の「校刊美術資料寺院編上巻」(昭和47年、中央公論美術出版刊)から上記3編のテクストを筆者が現代語訳したものが以下の通り。
「建久御巡礼記」(「南都巡礼記」ともいわれる)の西大寺の条
此(こ)の寺は銅の瓦で葺(ふ)かれていたが 貞観の旱(ひでり)で解けて流れ落ちた。その後、只(ただ)の瓦で葺いた。
「七大寺巡礼私記」の西大寺の条 「堂瓦消滅の事」として
言い伝えによると、この堂の瓦は青瓷(し)(=緑釉瓦)だったが、貞観の旱魃(かんばつ)の時、皆解けて流れ落ちて消えてしまった。その後は、ほかの瓦で葺き替えたが、年月を経て今のように壊れてしまった。
「阿婆抄諸寺略記」西大寺の条
この堂は青瑠璃のような緑釉瓦で葺かれていたが、貞観の旱魃(かんばつ)の時、暑さに耐えきれず、皆流れて消えた。その後は他の瓦で葺き替えた。しかし年月が経ち、雨漏りで、無残に壊れてしまった。緑釉は鉛と錫をたくさん含んでいるので旱で溶けた、と言われている。
さて、裏付けのはずの資料が「銅が溶けた」と書いていたり、挙句に、「瓦は(銅ではなく)緑釉瓦であり、それが溶けて流れ落ちた」と書かれている。これはいったいどう考えればいいのだろう。そもそも資財流記帳のどの文言をもって「銅の瓦」と特定できるのだろうか。「南都巡礼記全注釈」に取り組んでいる和歌山大学大橋直義 准教授に助けを求めた。
大橋先生によると、資財流記帳では、金堂の瓦について銅瓦葺きの根拠となる文言は「在銅瓦形」(薬師金堂)であり、「瓦端各金銅龍舌十枚」(弥勒金堂)だろう。
銅瓦については「建久御巡礼記」のほかに「帝王編年記」第14巻、貞観17年6月、炎旱の項に「…以前は銅瓦葺きだったが、貞観の旱で解け、流れ落ちた。その後は土瓦を用いた…」とあることを教えていただいた。
大橋先生の見解
和歌山大学 大橋直義 准教授
瓦(そのもの又は釉薬)が溶けた、ということが一連の言説の根幹にあって、西大寺側の問題としては、銅ないし緑釉の瓦で葺かれていたということよりもむしろ、貞観の日照りの苛烈さを言うことに問題の本質がある記述です。瓦の素材が何であったか、ということは後からでも改変可能なことであったのだろうと思います。
その点でいえば、やはり『資財流記帳』の記述は、創建当時の状況をそのまま伝えたものではない可能性も否定できません。ただ、このあたりの研究史、にわかには分かりません。おそらく誰も問題にしていない課題なのではないかと思います。
私は銅板ないし溶けやすい釉薬が塗られた瓦によって、当初の西大寺薬師金堂の屋根は葺かれていたのではないかと思いますが、そのことを証明する手だてというのはありません。確かなことは、平安後期には、そのような説がまことしやかに寺内で語られていた、ということだけです。
銅板で屋根を葺いた最古の例を示そう、という今回の原稿を書くにあたっては、「緑釉瓦であったそうだ」という「七大寺巡礼私記」や「阿婆抄諸寺略記」には触れたくないが、そうもいくまい。
銅瓦で屋根を葺いたとされる西大寺の薬師金堂はすでに存在しない。発掘調査においても銅屋根の痕跡は、まだ発見されていない。しかし先日2014年12月11日付けの奈良県文化材研究所のブログで、諫早直人氏による「(74)姿を現した西の大寺(下)」という記事を見つけた。
さて「昨年(2013)薬師金堂の西方と東北方で、南北に整然と並ぶ礎石の痕跡や雨落溝が発掘された。二つの調査区は約100メートル離れているにもかかわらず、礎石や雨落溝の位置は、薬師金堂を中心に東西対象の位置にある。どちらも薬師金堂をぐるりと囲む回廊の一部と考えて間違いないだろう。」というものだ。
すでに薬師金堂跡とみられる基壇や礎石痕跡がみつかっており、その規模は資財流記帳の記載と一致するという。ここで、新たな銅瓦の痕跡が発見される可能性もあるが、それより資財流記帳との一致が、多くの場面で表れている。言い換えれば、資財流記帳に書かれたことが、次々と実証されていることの方が重要だろう。
創建時の遺構。東塔基壇。上面に礎石が見える。
西大寺資財流記帳の中に「薬師金堂は銅瓦で葺かれた」という記載が確かに存在し、「西大寺資財流記帳」そのものは第一級の史料である。そして資財流記帳の記載通りの建物の後が次々発見されている。
本堂の手前の現在唯一の銅板屋根は、手水舎。
鐘楼
四王堂
現在の質素な桟瓦葺き本堂の屋根と風鐸
本堂隅鬼の先端。拝み裏の構造がよく見える。
金属屋根にかかわるものとして、自らの生業の起源を示す最古の記録については「銅板が我が国において初めて屋根に使われたのは765 年西大寺薬師金堂とされており、薬師金堂の屋根が銅板で葺かれたことが西大寺資財流記帳という第一級の資料に書かれている」という事実で満足すべきだろう。
東大寺に匹敵する大伽藍、その屋根は銅板で葺かれ、華麗さにおいて東大寺に勝る天下無双の豪華な屋根飾りがあった。想像力のスイッチを入れると西大寺は東大寺よりも面白い。
2ページの資財流記帳掲載にあたっては、西大寺 佐伯俊源 師から多大なご助力をいただいたことを感謝します。