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我が国最古の銅板屋根の記録

東大寺と並ぶ西大寺の大伽藍 銅瓦葺きの金堂屋根に錺金物が輝いていた

(1/3) ルーフネット 森田喜晴

西大寺は奈良時代後期、称徳天皇の勅願によって創建された大寺で、創建時には南都七大寺随一と称された名刹なのだが、今では極めて地味な存在である。唯一知られているのが、頭がすっぽり入るほどの大茶碗でお薄を回し飲みする「大茶盛(おおちゃもり)」の儀式であろうか。

近鉄・大和西大寺駅。京都から特急で40分。終点奈良まで10分。大阪への、また橿原神宮への分岐点で、奈良の中では交通の要の位置にある。大仏で有名な東大寺に対して西大寺は、地元の奈良でも寺の名よりも駅名として有名だ。大和西大寺駅から徒歩3分で西大寺東門に着く。

西大寺行きの列車が到着

西大寺

本堂の手前に唯一残る創建時の遺構。東塔の四角基壇。杭の下は当初計画された八角形基壇の縁石。

さて西大寺創建に関して、天平宝字八年(764)9 月11日藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱が発覚し、孝謙上皇はその当日に反乱鎮定を祈願して四天王像造立の誓願を立てた。翌年の天平神護元年(765)、上皇は重祚(ちょうそ=再び天皇に即位すること)して、称徳天皇となり、像を安置する四王堂の建立を命じた。称徳天皇の父は東大寺を創建した聖武天皇である。

創建当初の西大寺は、平城京右京1条3・4坊に位置し、麗な大伽藍として聳えたっていた。

屋根葺き材として銅を用いたという(現在のところ)最古の記録とされるのが、宝亀11年(780) 勘録のこの『西大寺資財流記帳』である。平松文庫版は、京都大学の学術情報リポジトリ「KURENAI 紅」のウェブサイトで見ることができる。資財帳とは社寺の財産目録である。現存している「西大寺資財流記帳」はすべて写本であり、西大寺所蔵の資財流記帳(P5)は奈良国立博物館に保管されている。ここに、銅板の瓦や装飾金物で飾られた薬師金堂と弥勒金堂の様子が記されている。

左から「大茶盛」の絵ハガキ。8枚入り450円。表紙は江戸時代の大茶盛の風景。

中は西大寺発行の小冊子「西大寺の文化」。500円。表紙は善財童子(像高2尺8寸)。本堂の文殊菩薩に脇侍として寄り添っており、女性に人気のある像だ。

右は岩波・奈良六大寺大観の解説を担当した長谷川誠氏の「西大寺」(中央公論美術出版・昭和40年刊)。1000円。表紙の邪鬼は、西大寺唯一の創建当時のものである。

西大寺は、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰退、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく寂れてしまう。

荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊(1201~1290)。叡尊は文暦2年(1235) に西大寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進する。その結果、西大寺はその活動拠点として繁栄する。西大寺は叡尊の復興によって密教・律宗の根本道場という新たな中世寺院として再生したわけだ。

その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うが、江戸時代になって幕府から寄進された300石の寺領によって諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となる。西大寺のHPによれば、近代に入ると明治28年 (1895)6月には内務省から「真言律宗」として独立認可を得て、更に第2次世界大戦後は全国九十数ケ寺の末寺を統括する総本山となる。

通常の入り口になる東門。

通常の入り口になる東門。

現在の西大寺境内伽藍案内図

現在の西大寺境内伽藍案内図

大茶盛で用いる直径45 センチの大茶碗

左:大茶盛で用いる直径45 センチの大茶碗。地元の土を用いた赤膚焼(あかはだやき)。右:以前より女性参拝客から「カワイイ」と評判だった「善財童子」(中)の姿が、ラグビーの何やら丸のキメポーズと似ているというので、人気上昇中。