銅屋根クロニクル

No.1

すべての瓦を下ろした正倉院正倉

(4/5) ルーフネット 森田喜晴

正倉院本屋を支える根太鼻先の銅板は元禄修理の際に巻かれた

どこまで巻くか。支柱に少し差し込んでいる。

根太の鼻先天場

正倉院御物が奇跡的に良好な状態で、保存された理由として2つの要因が挙げられています。一つは「勅封制度」によってみだり出し入れできなかった。されに建築的にみると、宝庫がやや小高い場所に、巨大な檜材を用いて建てられ、高床式の構造であることです。宝物は唐櫃に入れられた上、庫内で庫内に納めて伝来されましたから、櫃内の湿度の高低差を緩和し、外光や汚染外気を遮断するなど、宝物の保存に大きな役割を果たしたというものです。

小学校で教えられた「校木(あぜぎ)の隙間が湿度によって変化し、内部の湿度をい状態に保っている」という説は、実は正解ではなかった。「巨大な屋根の重量で、校倉(あぜくら)の呼吸・湿度調整機能は実はあまり効果はなかった」というのが最近の定説になっています。

根太鼻先。下から見上げたところ

正倉院は、奈良時代に創建され、治承4年(1180)の平重衡の南都焼打ち、や永禄10年(1567)の三好、松永合戦の兵火による大仏殿炎上、建長6年(1254)の北倉への落雷など大きな被害を被ってきたものの、幸運にも大事に至らず、現在の姿をとどめています。

隅木の鼻先にも…

解説によると、「…その間には経年による朽損、雨漏りなども少なくはなく、建物の維持のため、大小いくつもの修理が行われています。たとえば、いま見る外観のうちで、床下の柱に巻いた鉄の帯や、本屋(ほんおく)を支える根太の鼻にかぶせた銅板は、後世の修理時に加えられたものです。…」

では「本屋(ほんおく)を支える根太の鼻にかぶせた銅板は、後世の修理時に加えられたものです。」の「後世」とはいつでしょう? 一つ資料がありました。宮内庁正倉院事務所長を務めた、土井 弘(どいひろむ)さん(明治36年広島県生まれ) が昭和43年、小学館から発刊された「原色日本の美術」で次のように解説しています。

柱の上に縦横に組まれた根太の各鼻先が突き出しているのは実用というよりも装飾的な効果をあらわしたものといえよう。鼻先を覆う銅板は元禄修理の際、先端の腐食を防ぐために取り付けられたものであるが、年を経て自然に吹き出た緑青の錆は、色彩のない宝庫のたたずまいを一層引きたせている。実用一点張り「用の美」の典型のような正倉院正倉に程良い色彩を添えている。

展示コーナーに置かれた屋根の模型

現場では屋根の模型や実際に葺かれていた瓦も展示されている。

正倉院の防水用屋根下ルーフィングはサワラの土居葺 。百年経ってもほぼ健全

6層の土居葺きの様子がよくわかる。100年前の大改修で、土居葺や銅板のカバーが施された。こけら板の長さ1尺2寸、厚み1センチのサワラが使用されていた。

約100年ぶりの修理が進む奈良市の国・正倉院正倉の屋根瓦の下地について、宮内庁は9月11日、大正時代に瓦を全面的に新調した西側で腐食が進んでいたと発表していました。天平時代の瓦を残していた東側は傷みが少なく、宮内庁の「大正の瓦の焼きが甘く、湿気がこもりやすく蒸れ腐りの状態だった」との分析発表を受けて、翌日の新聞は「宮内庁によると、瓦は約3万5400枚あり、天平のものは865枚。1913(大正2)年の解体修理で西側は全面的に新調されたが、東側は天平の瓦が分散して残された。」と報道していました。

校木の隙間からの漏水を防ぐために施工されたであろう銅板。袋状にまげて釘留め。数か所にみられる。近くには漆喰で隙間を埋めた部分もみられる。

大正大改修で設置されたと思われる棟カバーと作業用丸カン。瓦が再び葺かれた時には腕の部分は隠れ、青銅の丸い輪だけが現れる。

正倉院正倉軒先からみた大仏殿の裏側。正倉院正倉の軒先から東大寺と興福寺を見る 。百年ぶりの大改修で、百年振りの絶景

東大寺大仏殿の巨大な屋根(背面)。中央右寄りに換気と明かりとりの為の開口部があり、その周辺に銅板による雨仕舞の後が見える。

正倉院正倉の軒先からみた興福寺五重の塔。今回の大修理で、足場がかかり、正倉院正倉の軒先の位置から、東大寺大仏殿(裏側)や周辺の寺を見ることができました。現場の係官から「今度みられるのは100年後ですから良く見ておいて下さい」と言われた。

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