No.96
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
2030年で創建1300年を迎える神田明神。明治元年(1868)に神社が国家の管理下に入ると准勅祭社に、その後、府社に列せられ、明治4年(1872)に社号が「神田神社」に改められた。
江戸時代初期には豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782)には権現造の社殿が造営された。大正12年(1923)、関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失したが、すぐに復興が計画され、昭和9年に当時としては最先端の耐震・耐火構造の鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の権現造の社殿が再建された。
この時の設計監督は明治神宮創建にかかわった大江新太郎、早稲田大学大熊記念講堂を設計した佐藤功一が、また顧問は湯島聖堂や築地本願寺を設計した伊東忠太、神田神社復興会総裁には元東京市長の阪谷芳郎が就任、東京を挙げての事業で
あった。
国登録有形文化財の社殿は本殿・幣殿・拝殿、神饌所・宝庫が重なり合う、昭和初期の神社建築としては斬新なもので、神田神社が令和3年に作成した「神田明神読本」によれば、『小屋組みを鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、SRC造ということを感じさせない工夫』をしているという。
昭和20年(1945)の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。
銅鳥居の先は湯島聖堂の銅屋根。
(写真中)神社のお守りにもなっている「水鳥」。拝殿の大棟の両端、下がり棟・隅棟の先端など、屋根のあちこちで、社殿を火から守っている。(写真右)手水舎の銅屋根にも水鳥と鳳凰。
総檜造り、入母屋二層建ての随神門は昭和50年(1975)に昭和天皇即位50年記念として再建された。外周に四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)を配し、内部には大黒様と因幡の白兎などの彫刻やレリーフなど華やかな彩色がなされ、緑青の屋根と相まって、随神門は境内で圧倒的な存在感を示している。
狛犬が随神門を睨む。
江戸を象徴する神社だけに、境内には小唄や俳人、画家、作家らの碑がある。
野村胡堂の代表作『銭形平次捕物控』の主人公・銭形平次が神田明神下の長屋に住居を構え
ていたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」がある(銭形平次は架空の人物)。
アクセス:東京都千代田区外神田2-16-2
JR総武・中央線 東京メトロ丸の内線「御茶ノ水駅」聖橋口より徒歩5分
JR東日本・東京メトロ・首都圏新都市鉄道「秋葉原駅」電気街口より徒歩7分