No.82
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
鹿児島空港から車で30分、JR霧島神宮駅からなら10分弱。真っ赤な神橋を渡り、老杉に覆われた参道を抜け、最後の階段を半分ほど登ると三の鳥居の奥に濃緑の塊が拡がる。中心部には明るい穴が開いていて、そこに向かって進んでゆくと、階段状に並んだ拝殿、本殿が眼前に浮かび上がる。夕方に近い太陽が朱の社殿と緑青の屋根に光を当てるからだ。
手前の勅使殿から登り廊下で拝殿につながり、幣殿を介して本殿に続く。山の斜面に沿って社殿が一直線にならんでいるから、まるで見下ろしているように屋根がたっぷり見える。「西の日光」と称されるのも納得だが、けばけばしさを抑えた分だけ、屋根の美しさが際立つ。
天孫降臨、高天原から高千穂峰に降り立った邇邇芸命(ににぎのみこと)を主祭神とし、妻神である木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)や曾孫である神武天皇までを祀る。
鹿児島県霧島市霧島田口、霧島山の中腹の傾斜地に鎮座し、高千穂山頂に向かって社殿が配置されている。1989年5月19日、国重文指定。
登廊下の下に勅使殿が建ち、廊下を登った先に本殿・弊殿・拝殿がある。
本殿は正面五間、側
面四間、入母屋造で、正面に一間の向拝をもつ大規模な建物で、屋根はすべて銅板葺き。本殿のほか登廊下、勅使殿も国重文指定されている。
勅使殿の前方両側に門守(かどもり)神社が配置され、登廊下の途中から西に廊下が出て、神饌所につながる。本殿・弊殿・拝殿、登廊下、勅使殿など同時期の建築が群を構成している。各建物は極彩色、漆塗・朱塗などとし、彫刻や絵画などで装飾した豪華な表現で、文化庁は「建物の質がよく、保存状況もよい。各建物にみられる彫刻や絵様には時代の先取りの傾向が強くみとめられ、また本殿向拝柱の龍の彫刻の手法などに地方色がみられ、鹿児島地方の代表的な近世社寺建築である。」としている。
延喜式(えんぎしき:平安時代中期に律令の施行細則をまとめた法典。全50巻)では日向国諸県
郡霧島神社と記されている。社伝によると、「本宮はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間、脊門丘に奉斎されていたが、霧島の噴火のために炎上し、村上天皇の天暦年間(950年) 天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興した。
また、文暦元年(1234年) の大噴火では、社殿、僧坊寺が災禍に遭い、田口の待世の行宮に250年間奉斎された。その後、真言宗の僧 兼慶上人が藩主 島津忠昌公の命をうけて土御門天皇の文明16 年(1484年) に社殿等を再興した。」という。そののち、別当寺 からの失火で全焼、第21代藩主島津吉貴の寄進により正徳5年(1715年)に再建されたのが現在の社殿。