No.78
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
「祇園社」と呼ばれた八坂神社は、祇園信仰の中心だった。祇園信仰の神は牛頭天王(ごずてんのう)。古代インド・コーサラ国にあった僧院・祇園精舎の守護神とされる。地元民の通称は「祇園さん」。祇園祭は、千百年余の伝統を有する八坂神社の祭礼である。
社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建という。しかし貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したという説もあり、実のところ定かではない。
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
四条通が東大路に突き当たったところにある、この朱塗りの有名な楼門は実は裏門である。 正門は南門で、料亭とお茶屋に挟まれた下河原通を上がってゆくと重文の石鳥居 に出会う。正保3年(1646年)建立。寛文2年(1662年)の地震で倒壊後、同6年(1666年)に補修再建された。
その先には銅板葺きの南楼門・舞殿。さらに奥が本殿と一直線に連なる。楼門の手前右手には、京都人にも敷居が高い料亭中村楼。初もうでの際は、中村楼のモダンアートのような門松と店先の風情が、新年気分を一層盛り上げてくれる。
重文の西楼門。切り妻二階建て門
南楼門につるされた提灯が、かろうじて祇園祭を感じさせる。
東山を背景に舞殿。楼門とともに、平成27年に銅板が葺き替えられた。舞殿。慶応2年(1866)の火災で類焼、明治7年土間式で再建。同35年現在の床式に改築した。
本殿東面北端
改修工事中の舞殿と楼門。本殿側より2015年3月撮影。
本殿より、改修後の舞殿と楼門
舞殿南西の箕甲
祇園祭は、古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って災厄の除去を祈ったことにはじまる。
例年、祇園祭は7月1日の「吉符入きっぷいり」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社えきじんしゃ夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって連日、神事・行事がくり広げられる。
祇園祭の実施に関して、コロナ禍の中、祇園の街は「今やらねば何の祇園御霊会ぞ」、一方、「祭りで感染が広がれば祭りの根底から覆ってしまう」と大きく分かれた。結局、例年なら、祇園祭一色の京都の中心は、極めて静かだ。山鉾巡行も神輿も花笠もなし。豪雨予報のせいもあるが7月7日の八坂神社にこれほど人がいないのは、何百年ぶりなのだろう。本殿は承応3年(1654)創建。檜皮葺き。
南楼門は慶応二年(1866)の火災で焼失、氏子の寄進で明治12年(1879)年再建。屋根は檜皮葺を昭和56年、銅板葺に替えた。八坂神社の正面にふさわしい重厚、気品のある建物で、老朽化が進んでいた。そこで、老朽化の激しい舞殿と南楼門の
屋根改修工事を2015年に実施した。いずれの屋根も銅板の一文字葺き、棟は瓦。
銅板は2,500枚が必要で、棟瓦は舞殿用に八寸角を40枚、南楼門用に尺版角を45枚限定で受け付け、それぞれ住所、氏名、祈願を墨書して屋根に葺かれた。尺版瓦は10万円、八寸」瓦は8万円、銅板は5千円。もちろん屋根業界からの寄進もあった。
本殿は八坂神社独特の「祗園造(ぎおんづくり)」。本殿と拝殿は通常独立しているが、ここではそれらをまとめて同じ屋根で覆っている。JMRAの用語解説では「身舎もや」の上を切り妻とし、四方に庇を葺き降ろして入母屋造りの形になり、さらにその下に庇(孫庇)をつけて神殿造り様式としたもの」とある。寺院のようなこの構造は神仏習合と祇園信仰との深いかかわりを示しているという。
祭神は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、スサノオの妻である櫛稲田姫命(くし(い)なだひめのみこと)、スサノオの8人の子供である八柱御子神(やはしらのみこがみ)摂社、末社もほとんど銅板葺きで、見どころが多い。
西楼門から入れば正面が疫神社だ。昨年銅板屋根が葺き替えられた。
楼門屋根のムーンロード。雨に濡れた銅屋根は美しい。雨雲の隙間から差し込んだ夕陽で、濡れた銅板の表面に金の社紋が映り込み、満月が海面に作り出す光の筋のようだ。
本殿の雨落とし
美御前(うつくしごぜん)社の祭神は宗像三女神(多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比 売命)。弁天さんはこの市杵島比売命をさす。古くから祇園の芸舞妓をはじめ美しくなりたい女性、美容利用・化粧品業者の崇敬を集めている。
素戔嗚尊の荒魂を祀る悪王子社。
美御前社
スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をした時、一夜の宿を請う。スサノヲノミコトを兄の巨旦将来(こたんしょうらい)は栄えていたのに貸さず、弟の蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなした。喜んだスサノヲノミコトは、疫病流行の際、蘇民将来の子孫に茅の輪を腰につけさせ、疫病の厄を免れさせることを約束した。その後、巨旦将来の子孫は皆途絶え、蘇民将来の子孫は栄えたという。これが、「ちまき」のおこりと言われる。粽には「蘇民将来子孫也」の護符が添えられる。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕、また7月31日には、蘇民将来を祀る八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与する。疫病除けの八坂神社の中でも、さらに厄除けに特化した疫神社。コロナにも効きそうである。このお祭をもって一か月間の祇園祭も幕を閉じる。