No.77
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
琵琶湖の東、近江鉄道多賀大社駅前から続く参道「絵馬通りを」歩くこと約5分、名物「糸切り餅」の老舗を過ぎれば、廃仏毀釈で多賀大社から切り離された阿弥陀如来坐像を祀る真如寺は近い。そこから車戸川にぶつかって、右に曲がれば太閤橋の先、神門越しに深い杜を背負った檜皮葺きの本殿が見える。駅から10分ほどの距離である。
多賀大社。所在地は滋賀県犬上郡多賀町多賀604。伊邪那岐命(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の二神を祀り、創建は『古事記』以前の上古と考えられる。本殿は三間社流造で、屋根は檜皮葺き。奈良時代・天平10年(738 聖武天皇)に、社殿を造営したという記録がある。
江戸時代には何度も火事に被災し倒壊もしたが幕府や彦根藩の保護により復興している。現在の社殿が造営されたのは昭和7年(1932)。拝殿から東西に延びる回廊が、本殿・幣殿・神楽殿を取り囲み、一般の参拝ではよく見えない。平成19年(2007)に平成の大造営を終え、屋根もすべて吹き替えられた。千木を載せた本殿の壮麗な檜皮の屋根・銅板の棟飾りは外からでも堪能できる。
太閤橋
多賀大社のご利益が延命とされるに至った2つの理由がある。
参集殿
梵鐘
大釜
まず、天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母・大政所の延命を祈願し、成就したため、社殿の改修に米1万石を奉納した。境内正面の石造りの太鼓橋(寛永15年(1638年)造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。
もう一つは、勧進帳で有名な、鎌倉時代の僧である重源の伝承である。同社によれば、東大寺再建を発念した時、重源の年齢は61歳。成就祈願のため伊勢神宮に参籠したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の
意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれている。また、多賀大社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」はこの伝承が由来である。
戦国時代には神仏習合が進み、神宮寺として不動院が建立され、神宮寺配下の坊人が、全国にお札を配って信仰を広め、多賀大社は中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」という俗謡もある。「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。見事なキャッチだ。
日向神社
わき座から本殿を望む
能舞殿から見る拝殿
境内の見どころは多いが、太閤橋を渡ったあと、建物は神門、神馬舎、手水舎、拝殿,能舞殿、授与所、儀式殿、奥署員、参集殿、絵馬殿、大釜、梵鐘、蔵など、いずれも銅板葺きの屋根が美しい。境内に並ぶ15の摂社・末社も端正な佇まいだ。唯一の摂社である日向神社は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀る多賀大社の地主神でもある。
能舞殿の写真のうち、雪をかぶった屋根の写真は、全国の奉納翁巡りをライフワークとしているJWHA 日本防水の歴史研究会佐藤孝一氏から、提供いただいた。
アクセス:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地
車:名神彦根I.C.から10分
名神 湖東三山スマートI.C.から15分
電車:JR彦根駅乗り換え
近江鉄道「多賀大社前」駅下車
徒歩10分