銅屋根クロニクル

No.73

歴史が凝縮された銅屋根づくしの境内
鎮守の森は都会のオアシス 生田神社(兵庫県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

JRや私鉄各線の三ノ宮駅から北へ徒歩10分、生活に溶け込んだ、生田神社が祀るのは、天照大神の和魂(にぎみたま)あるいは妹神と伝えられる稚日女尊(ワカヒルメノ ミコト)。
稚くみずみずしい日の女神であり、物を生み育て万物の成長を加護する神とされる。機織り(はたおり)の女神でもある。

神功皇后元年(201年)の三韓外征の帰りに、今の神戸港で船が進まなくなり神占を行ったところ、稚日女尊(ワカヒルメノミコト)が現れ「私は活田長狭に居りたい(私は生田の国におりたい)」と話したと日本書紀に記されている。糸と糸を織りなすように。人と人とのよき縁を結ぶ神として、恋愛成就、縁結びのご利益を求め人達で賑わう。

現在の境内は狭いが、見どころは多い。銅板葺きの楼門、拝殿, 本殿の他にも蛭子神社、松尾神社はじめ15の摂社・末脇社が連なる。箙の梅、梶原の井、敦盛の萩、弁慶の竹、八丁梅などの源平合戦などにちなんだ多くの史跡、さらに弁天池、「謡曲生田敦盛」の碑や包丁塚、境内北側にはパワースポットとされる鎮守の森「生田の森」が広がる。この森は地元では都会のオアシス。ヒーリングスポットとして親しまれ、春には曲水の宴が開催され、平安の歌遊びを再現した行事として楽しまれている。

生田神社境内見取図

楼門

楼門

松より杉。楼門には門松ではなく巨大な杉盛が据えられる。伝説によると、799年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる、というのだ。

拝殿の奥は生田の森

拝殿の奥は生田の森

社殿は、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災以前にも、1938年(昭和13年)の神戸大水害・1945年(昭和20年)の神戸大空襲など何度も被害にあうも、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」として敬われる。

生田神社はたくさんの芸能人が結婚式を挙げたことでも人気。日本で初めての夫婦となった伊弉諾(イザナギ)と伊弉冊(イザナミ)の2神が結婚の時に読まれた歌と素盞鳴尊(スサノオノミコト)の婚姻の歌が歌詞となっているという。「むすびの神曲」という曲が演奏される。会場となるのは、「生田神社会館」竹中工務店設計施工、屋根の鳥はカササギ。
 縁結びの神" 稚日女尊" を祀って1800年の歴史をもつ生田神社の境内に、第60回伊勢神宮式年遷宮を記念して建設された。伝統的な日本の美と西欧的モダニズムの完全な調和、と自称している。

拝殿

拝殿

本殿

本殿

鰹木

生田神社会館の銅屋根

屋根飾りの「カササギ」は、七夕伝説における織姫と彦星の間をつなぐ掛け橋の役を担う鳥として、親しまれている。7日に雨が降って天の川が増水すると、対岸へ渡れない彦星と織姫が出会えるように、何羽ものカササギが連なり橋の代わりを努めるという話がある(鵲の橋)。奈良時代の歌人大伴家持は七夕伝説に取材した歌でカササギを歌っている。
鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける
(『新古今和歌集』・『小倉百人一首』)

摂社・末社

摂社・末社

酒を醸す宮・生田神社は新羅からの客人に自社で醸造した神酒を振舞っていたことが伝えられている。その由縁から「毎年神酒を醸造し、新羅の客人が来朝するたびに邪気を祓う為、生田の地で醸された神酒を振舞った。新羅の客人の罪穢れを祓い心身共に清々しくさせ、心を和ませるといった朝貢外交以上に平和外交上重要な役目を担っていた」という。

生田神社では毎朝、日供祭(毎日の食事を神様にお供えする祭)を執り行っているが、新年を迎え始めてこのお

日供祭

祭りを行うのが1月2日の日供始祭。「日供始祭 翁面掛け神事にっくはじめさい おきなめんかけしんじ」という。
 このお祭りは観世流藤井定期能楽会奉納によるもので、参列並びに見学が可能。写真は3 年前に、全国奉納翁取材の一環で、まじかで見学、撮影したもの。地域に密着した神社であることを実感した。

荒魂・和魂 あらみたま にぎみたまとは

古代の日本人は、神霊は、2種の霊魂から複合的に構成されていると考え、これを大別して荒魂・和魂とよんだ。荒魂はたけだけしい面、和魂は柔和、仁慈の徳を備えた面をさす。普段は一つの神格なのだが、ときに両面が分離し、単独に一神格として行動する。

ページトップへ戻る