銅屋根クロニクル

No.72

新しい本堂から平安の浄土庭園を夢想する
毛越寺(もうつうじ)(岩手県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

岩手県南部、JR平泉駅から徒歩 7 分、平泉町にある天台宗の寺で、山号は医王山。嘉祥 3 年(850)円仁の開基。藤原基衡、秀衡親子が堂塔を造営し、後鳥羽上皇の勅願寺となるなど、中尊寺と並んで藤原期の東北文化の中心地として繁栄した。その後、幾度か火災にあったが再建され、明治維新後は延暦寺の末寺となった。

毛越寺を目指して平泉を訪れる人はまれで、ほとんどは中尊寺のついで参りというのが残念な実情だ。しかし、かつては中尊寺をしのぐ華麗な伽藍が林立した、というから、毛越寺は、本協会HPの「あの屋根この屋根・我が国最古の銅板屋根の記録~東大寺と並ぶ 西大寺の大伽藍 ~http://www.kinzoku-yane.or.jp/feature/n_13.html に記した通り、東大寺に対する西大寺のような位置づけかもしれない。毛越寺境内附鎮守社跡は国の特別史跡。庭園(国の特別名勝)は、平安時代浄土庭園の代表的遺構である。
 毎年1月20日に常行三昧供の儀式で行なわれる「延年の舞」が、2011年に世界文化遺産に登録され、観光的には最も脚光を浴びる行事となっている。

毛越寺境内附鎮守社跡は国の特別史跡

銅板葺きの山門

銅板葺きの山門

毛越寺

奥州平泉といえば、歌舞伎や能の人気曲・安宅で、追っ手から逃れた剛力と山伏に扮した義経一行が目指す地である。古来幾多の戦闘が繰り広げられた奥州を仏教によって浄め、陸奥辺境の地を仏国土とするという初代清衡の掲げた理想は、中尊寺となった。二代基衡はそれを受け継ぎ、さらに発展させ、中尊寺をはるかに上回る規模で造営したのが毛越寺である。

最盛期には50余の堂宇を備えた壮大な伽藍(がらん)を形成したが,1226年および1573年に焼失。現在境内には1989年(平成1)に再建された本堂のほか常行堂、宝物館がある。基衡の再興時の礎石や遺構が残されており、境内地は特別史跡に指定されている。庭園(特別名勝)は大泉が池を中心に 造園当時の配石を残しており、平安時代の典型的な浄土庭園の遺跡である。常行堂で古式にのっとって行われる常行三昧供(ざんまいく)、そのあと奉納される延年の舞(えんねんのまい) はいずれも国重要無形民俗文化財に指定されている。各子院には寺宝も多い。

事務棟に屋根も金属瓦葺き

事務棟に屋根も金属瓦葺き

本堂。本尊は薬師如来。

本堂。本尊は薬師如来。

元禄2年5月13日(1689年6月29日)、平泉を訪れた芭蕉は悲運の義経主従を偲び「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んでいる。 山門から本堂へ向かう途中の右手には、芭蕉句碑が立つ。(芭蕉真筆句碑と英文の句碑)。

鐘楼

方丈の檜皮葺の屋根。常行堂と同じく、銅鋳物の露盤宝珠を戴く。現在の鐘楼の鐘は昭和50年に、人間国宝 香取正彦の作で、平等院の姿を写しているという。美しい音色を聴きたければ、1回500円で撞くことができる。
 池の左に見える立石は、東日本大震災の際8度傾いたが、修復のため池の水を抜いた際、 島の構造や石の配置など平安時代の作庭の様子が判明し、畔の案内板に配置図が示されている。

鐘楼

常行堂

本尊は宝冠阿弥陀如来。奥殿には秘仏摩多羅神(またらじん)を祀る。現在の建物は享保17年(1732)に再建 されたもの。毎年1月20日に、古式常行三昧の修法が行われる重要な堂だ。

開山堂

毛越寺を開いた慈覚大師円仁(794~864)を祀る堂。慈覚大師は天台宗の三代目座主で、日本で初めて大師の号を授けられた。大師が残した在唐9年間の記録、「入唐求法(にっとうぐほう)巡礼紀行記」は" マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西域記」とともに、三大旅行記として高く評価されている" と寺は記している。

延年とは、寺院の大きな行事の後に催されていたいわば芸能大会。流行している歌や舞や、神仏を称える芸能を、僧侶や稚児たちが披露するものだった。舞楽や散楽、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称。延年に専門的にたずさわる僧侶は「遊僧〔ゆそう〕」と呼ばれた。延年という名称は、延命長寿に由来する。能の原型である猿楽との関連は深い。

延年の舞のポスター

延年の舞のポスター

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