銅屋根クロニクル

No.71

修験道総本山の銅屋根
聖護院門跡(しょうごいんもんせき)(京都府)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

千枚漬けの聖護院蕪・大根・キュウリといったブランド野菜、さらには元祖争いが続く八つ橋の名前につけられた「聖護院」。御所から鴨川にかかる荒神橋を渡り、大文字に向かって15分程度。京都市左京区聖護院中町にある修験道・山伏の寺の名前でもある。寺の正式名称は「聖護院門跡(もんせき・もんぜき)」。東山近衛の交差点からだと徒歩5分に位置する。

門跡(もんせき、もんぜき)とは、皇族・公家が住職を務める寺院、また住職をさす。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのものを指すようになり、これらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。後白河天皇の子静恵法親王が宮門跡として入寺して以降、高い格式を誇り、江戸時代後期には二度にわたって仮皇居となったこともあり、現在「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。

節分。採燈大護摩供(さいとうおおごまく)で、法弓の儀(ほうきゅうのぎ)

節分。採燈大護摩供(さいとうおおごまく)で、法弓の儀(ほうきゅうのぎ)。空の四方に向かった破魔矢を射る。

山門

延宝3年(1675)の大火で全焼した聖護院は創建当初の旧地に伽藍を再建。山門はこの時の建築で、平成12年に修理された。聖護院の創建は約900年前、応仁の乱以降四度の火災にあい、市内を転々とし、現在の地に戻ったのは約300年前。寺の解説によると、明治までは寺の西側に院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていた。その森の中にある御殿であることから、「森御殿」ともよばれ、 今でも近所には聖護院と呼ばずに、「御殿」と呼ぶ人もいる。またこの森の紅葉は、錦の織物の様に美しいため「錦林」と呼ばれ、「聖護院」と共に今も地名として使われている、・・・という。確かに普段ひっそりとした聖護院だが、すぐそばで時折、歓声上がる小学校は錦林小学校だし、吉田山を越えると錦林車庫だ。錦林の名の由来がここにあることは、半世紀ほど前「第四錦林小学校」に通った筆者も初めて知った。

延宝3年(1675)の大火で全焼した聖護院は創建当初の旧地に伽藍を再建

博物館本館はみなとオアシス新潟の代表施設となっている。

山門

山門

宸殿

整えられた細かな白い砂利の前庭。毎年2月3日と6月7日に採燈大護摩供が行われる神聖な場所である。
 大玄関、孔雀、太公望、波の間等内部の部屋は15を超え、狩野永納、益信筆による障壁画が130面にも及ぶ。宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿である。書院作りの影響を受けつつ、寝殿造りの形式を残した宮殿風の造りで屋根は銅板の一文字葺き。

山王社

聖護院山王町の個人宅に鎮座していたものを平成29年に聖護院門跡境内に移したもの。
 古い檜皮の屋根と銅板の棟包み。遷座(せんざ)当時、聖護院山王社のFacebookでは、旧境内の様子や遷座までの様子を見ることができる。

大玄関

大玄関

山王社

山王社

修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される。
 当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師によって、一方本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祀り、形成されていった。
 寛治4年(1090)、白河上皇の熊野三山参詣の先達を務めた増誉大僧正が、その功績によって聖体護持の2字をとり、 聖護院という寺を賜ったのが聖護院の始まりであるそうだ。 最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる大修験集団となった。

聖護院節分会(せつぶんえ)では厄除け・招福を祈願する。2 月2 日に終日柱源護摩(はしらもとごま)、3 日に追儺式(ついなしき)山伏福豆まき・厄除開運採燈大護摩供(さいとうおおごまく)・古札焼きが行われる。なお節分会では本尊・不動明王像(重要文化財)が公開され、厄除開運採燈大護摩供では山伏による問答・法弓の儀(ほうきゅうのぎ)・法剣の儀(ほうけんのぎ)・法斧の儀(ほうふのぎ)などが行われ、護摩壇で護摩木が焚き上げられる。

積善院準提堂

積善院準提堂

積善院準提堂

聖護院の東に接する積善院は鎌倉時代1200年頃の創建で、江戸時代建立の凖提堂と明治の初め合併され、積善院凖提堂とも呼ばれる。本堂には重要文化財の木造不動明王像と光格天皇勅願による凖提観音像が祀られている。
 普段は白い壁で聖護院と扉で区切られているが、節分祭の時などは聖護院との間を行き来することができる。
宸殿の前庭で厄除開運採燈大護摩供を終えた山伏たちは、ほら貝を吹きながら積善院の門を出る。

宸殿の前庭で厄除開運採燈大護摩供を終えた山伏たちは、ほら貝を吹きながら積善院の門を出る

細い通りをはさんで向かいが、非常に珍しい須賀神社。聖護院とは無関係だが少しだけ紹介する。交通神社と称される小さな神社だ。普段はお参りも少ないが、節分の2日間だけは、多くの人、特に若い女性で賑わう。その訳は懸想文(けそうふみ) だ。
江戸時代に京都の風俗行事として流行した懸想文売りを再現したもの。烏帽子(えぼし) に水干(すいかん) 姿で梅の木の枝に文を付け、覆面をして売り歩いたとそうだ。いわば恋文代筆業。貴族の秘密のアルバイトだったので顔を隠しているのだという説がある。
 懸想文とは縁談や商売繁盛などの願望を叶える符札。この懸想文を誰にも言わず鏡台や箪笥に入れておくと、顔かたちが美しくなり、衣装が増え、良縁が得られるという。

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