銅屋根クロニクル

No.61

天神さんもお慶び~爛漫のキリシマと旬のタケノコ~
長岡天満宮(京都府)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

名物はタケノコと、キリシマツツジ。京都駅から大阪に向かってJRで10分ほど。かつては京都府乙訓郡長岡京、現在は京都府長岡京市。長岡天満宮の所在は、延暦3年(784)桓武天皇が平城京から遷都し、長岡京を造営したところだ。地元では「天神さん」といえばもちろん北野ではなく、長岡天満宮である。

全国的に有名になってしまった長岡のタケノコは京都の街に本格的な春の到来を告げる食材だ。近年では「タケノコフェスタ」なるものが開催され、タケノコ料理はもちろん店先や露店では、串に刺した「タケノコ焼き」は当然として「タケノコたこ焼き」「タケノコマカロン」まで登場する。

GW直前、この号が出る頃、普段静かな天神さん周辺は、多くの観光客で賑わう。「八条が池」両側に樹齢百数十年のキリシマツツジが多数植えられており、その見事さは我が国随一と言われる。また、近くの乙訓寺のボタンも見逃せない。手水舎の銅板屋根。下の檜皮の断面と背景の濃い緑が、キリシマツツジの艶やかさを際立たせる。

現在の境内周辺は平安時代、菅原道真の所領で、道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだ縁深いところであるという。 道真が大宰府へ左遷される際、この長岡に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだという。道中従った菅原氏の一族である中小路宗則は高槻まで同船し、帰り際に道真から自作の木像と念持仏を託された。道真の死後にその木像を祀ったのが長岡天満宮の創立とされている。爾来皇室などの寄進造営をうけ、寛永15年(1638年)に八条宮智仁親王によって「八条ヶ池」が築造された。元来10万坪以上有した社地は、明治維新の上地のため、現今は2万余坪。

長岡天満宮(京都府)

境内周辺は平安時代、菅原道真の所領で、道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだ縁深いところであるという。

手水舎

手水舎の獅子口の丸瓦には大阪天満宮の梅が。

手水舎の獅子口の丸瓦には大阪天満宮の梅が。

拝殿

現在の社殿のうち、本殿、祝詞舎、透塀は昭和16年(1941年)に京都の平安神宮の社殿を移築したもので、正面の朱塗りの拝殿は「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、1998年、既存の拝殿を増改築したものである。本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、回遊式庭園「紅葉庭園 錦景園」として近年整備された。

本殿の檜皮葺の劣化が激しく、鉄板のつぎ当てが目立つ。

本殿の檜皮葺の劣化が激しく、鉄板のつぎ当てが目立つ。

拝殿の唐破風に北野天満宮と同じ梅の紋。

拝殿の唐破風に北野天満宮と同じ梅の紋。

道真は梅をこよなく愛し、その邸宅が紅梅殿・白梅殿と呼ばれていた。しかし。梅はもともと中国から奈良時代に伝来した外来種で、中国文化教養を象徴する花だった。天平年間、大伴旅人らが太宰府で梅花の宴を催し、梅を詠んだのは、その時代の最先端的な唐風の振る舞いであったという。(平成21年、九州国立博物館「国宝天神さま」での記念シンポジウム資料より)。上の宴における「梅花三十二首」の序文からとられたのが、新元号「令和」である。

道真といえば「飛梅伝説」の元となった歌が、最も知られている。これは道真が太宰府へ西下の時、京の邸宅の紅梅殿の梅に
 " 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
       あるじなしとて 春な忘れそ"

と歌を詠むと、後にその梅が 配所太宰府の菅公のもとに飛んできた。というもの。

アクセス: 長岡京市天神2 丁目15-13
     ・阪急「長岡天神駅」下車徒歩10分 JR「長岡京駅」下車徒歩20分

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