No.56
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
京都・祇園、丸山公園音楽堂の西、高台寺の北隣に位置する祇園閣は、1928年(昭和3年) に建築された鉄筋コンクリート造三階建。高さ百二十尺(36m)、鉾先には金鶴が輝く。大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が建てた別邸の一部である。
屋根は銅板葺きで、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため、と言われている。祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。入口や内部のあちこちに忠太の霊獣が据えられている。
1988年には望楼に至る階段の壁に敦煌・莫高窟壁画模写が中国人画家の手により描かれている。1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。書院は元々この地にあったもので、旧大倉家京都別邸・真葛荘の一部。祇園閣とともに国の登録有形文化財に登録された。
大雲院総門と祇園閣
大雲院本堂は、平安・鎌倉折衷様式二階建本瓦葺。真後ろに祇園閣の鉾。先端の金鶴。
本堂から鐘楼を見る。後ろに祇園の街並み。
入り組んだ民家の屋根越しに突如、祇園祭の鉾のような異様な屋根が見える。周辺に住む人以外、これが何であるか余り知られていない。
基部は溝板の狭い瓦棒葺きで、狭い溝板の寸法は変えずに瓦棒を太らせて可変して水下を広げていく、という納まりのようだ。伊東忠太の好みを実現するためのとても凝った納まりである。
地元の職人に、「これは何という葺き方といえばいいんでしょうね」と聞くと、「ん~」、とうなって、しばらく 考えた後「極太瓦棒葺き・水上絞りとでも。なんのこっちゃという感じやね」と苦笑いした。
鐘楼
豊臣秀頼が北野神社に寄進した鐘楼。梵鐘は室町時代の銘があり、もともと八坂神社にあった。明治維新の神仏分離によって無用とされたものを島津家が大雲院に寄進した。
書院
登録有形文化財の書院も伊東忠太の設計。木造で一部鉄筋コンクリート造、八角形の応接間。裳輿(もこし)屋根の銅板、八角屋根の頂点に宝珠のような錺。
祇園閣の基礎と下部。忠太風の狛犬が控えている。扉にも大倉のシンボルである鶴が。
解説によると「大雲院は天正15年(1587年)正親町天皇の勅命により織田信長・信忠の菩提を弔うため、開山貞安上人に御池御所(烏丸二条南)を賜り、信忠公の法名「大雲院殿三品羽林仙厳大居士」に因んで大雲院と名づけ、織田父子の碑を建て追善供養した。その後、豊臣秀吉は寺域の狭隘なるを観て同18年(1590年)寺町四条に移し、同年後陽成天皇により勅願寺の綸旨を給い、大雲院の三字を親書された。その勅額は本堂にかけられている。以来その地に伽藍を擁していたが、その周辺は商業繁華の中心となった為、当地祇園閣のある真葛ヶ原の勝域に移転され、昭和48年4月、本堂が落成した」とある。
大雲院と祇園閣は元々は関係のない建物だったが、大雲院の移転先にたまたま祇園閣があったので、そのまま建物を活用したわけだ。
当初、大谷光瑞とならぶ伊東忠太のパトロンであった大倉喜八郎は、金閣、銀閣に次ぐ銅閣を建てたいと伊東忠太に設計を依頼した。しかしその内容は「雨傘が逆さまに開いたイメージ」という奇抜なものだったらしく、伊東忠太は設計が困難だと断り、代わりに祇園祭の鉾の形を提案した。周囲の反対などからやむなく祇園祭の鉾のイメージで造ることにし、名前も「祇園閣」に。喜八郎は完成を見ずに他界。相続した息子の喜七郎は建物の異様さを嫌ったそうである。現在は大雲院の所有で年に一度公開されている。