No.53
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
天台宗別格本山角磐山大山寺は712年奈良時代金連(きんれん)上人によって創建された神仏習合の大寺院であった。行者達の荒修行の場として崇拝され、平安末期、室町時代には、天台宗山岳仏教の修験場として寺勢を誇り、高野山金剛峯寺や比叡山延暦寺と並ぶ大寺となる。そして「大山僧兵3000人」と言われるほどの勢力を持つにいたる。鎌倉時代には隠岐から脱出した後醍醐天皇を援けるために挙兵したと伝えられる。
寺の由緒書きによると、平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする詔が下り、本尊を本殿権現社(現在の大神山神社奥宮)に祀り、大智明権現と呼ばれるようになった。
戦国時代には尼子氏、毛利氏、吉川氏、亀井氏など中国地方諸将に保護され、徳川幕府からは3千石の地領を得ていた。その後衰退し、現在は4つの参拝堂と10の支院を残すのみとなった。今も本堂を中心に、寺宝を収蔵した宝物館霊宝閣、阿弥陀堂などが現存する。本堂を始めこれら大山寺の堂宇のほとんどは銅板の一文字葺きである。現在の大山寺の本堂は、大山地蔵信仰の中心をなす御堂で、明治の神仏分離による大山寺再興の際、本堂となった。
大山寺本堂
手前は鐘楼の屋根
本堂向拝の経の巻
楼門の屋根
長い石畳の突き当り。楼門の階段を昇れば本堂だ。
楼門側面
大山寺 下山観音堂
大神山(おおがみやま)神社奥宮拝殿
大山寺 護摩堂
梵鐘。鎌倉時代の作で、県内では2番目に古い梵鐘。
奥宮の神門。1857年に寄進されたもので、元は本坊西楽院の門。
昭和26年に再建された本堂。大山信仰の中心となる御堂だ。向拝の左屋根銅板寄進の文字が見える。
大山寺へ向かう途中、石畳の分かれ道から左に逸れると10分ほどで大神山神社(おおがみやまじんじゃ)奥宮に至る。社殿は全国最大級の壮大な権現造りで、もともとは、僧が修行のために大山に登り、その道場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが始まりと言われている。明治初頭の神仏分離令により、大智明大権現の社殿を大山寺から分離し、現在の大神山神社奥宮となった。 自然石を敷きつめた700mの参道、権現造りの社殿が見事。
その神門は、門の表裏が反対になっているため、「後ろ向き門」と言われる。 写真は本殿側から見たところ。
奥宮は末社の下山神社と同じ構造の権現造りで、規模は全国最大級。幣殿にある白檀の漆塗りも日本一の規模と言われる。屋根はいずれも杮葺きに銅の箱棟。大神山神社の大神山とは大山の古い呼び名。大国主命(おおくにぬしのみこと)大黒様が祀られている。
全国多くの寺院もそうなのだが、神仏分離・廃仏毀釈の波に翻弄され、往時の面影はない。大山寺も同様で、現在の大山寺に現存する寺院の中では、国重文の阿弥陀堂が最古の建築物で、藤原期に建立された。しかし享禄二年(1529)に山津波で倒壊、天文二十一年(1552)に現在の場所に再建された。この阿弥陀堂や大神山神社奥宮にかつての大寺の姿をしのぶことができる。言い換えれば、大山神社奥宮、阿弥陀堂を見て初めて大山神社を参拝したといえる。