No.50
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
江島神社は、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)を祀る「辺津宮(へつみや)」、 市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)を祀る「中津宮」、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)を祀る「奥津宮」の 三姉妹の女神三社からなる。
この三女神を江島大神と称し、古くは江島明神(えのしまみょうじん)と呼ばれていたが、神仏習合によって弁財天女とされ、今は江島弁財天として信仰されるに至る。 海の神、水の神であると同時に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神でもあり、福岡の宗像大社や、広島の厳島神社と同神とされる。
さて江島弁財天は西の厳島・竹生島とともに東の代表として、日本三大弁財天と称される。これらの日本三大弁財天の中で銅屋根比率が圧倒的に高いのが江島神社である。
また言ってしまうが「銅屋根が一番美しい姿を見せるのは雨上がりである」。本コーナーでも、長崎・諏訪神社や石川・金沢城などで、その雨中、雨後の様子を紹介した。しかし雨が降らずとも緑青の屋根が異様な存在感を示す時があることに気が付いた。それは真夜中の初詣。参拝客のために、もしくは屋台のために通常のライトアップとは異なる角度で境内を照らす強力なライトは、屋根の青と緑、金飾りを浮き立たせる。この時も悪くない。
参道の入り口の青銅の鳥居をくぐると、階段の先に龍宮城を模した龍宮造りの楼門「瑞神門」がそびえる。その先左側の手水舎の屋根とともに一文字葺きの銅屋根だ。
元旦の午前3時を過ぎても、段階的な入場制限を経て、やっと辺津宮(へつみや)の拝殿の向拝の唐破風が見えてくる。たどり着いた拝殿右の社務所の屋根も地味に銅板葺きである。
社伝によると、辺津宮は土御門天皇 建永元年(1206年)、時の将軍・源實朝(みなもとのさねとも)が創建。延寶三年(1675年)に再建。その後、昭和五十一年(1976年)の大改修で、現在の権現造りの社殿が新たに作られた。「向かい波三つ鱗」の社紋が妻飾りと鬼板に見られる。
江の島の神域内では、文字通り水に面して、一番下に位置していることから『下之宮』とも呼ばれ、 島の玄関口にあたる。江島神社の社紋は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の中の三つの鱗」を表現している。『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れた。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にした。
さらに弁財天についてはこんな伝説を記している。「鎌倉には昔、五つの頭を持つ龍がいて悪行を重ねていました。そこへ天女が舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせました。この五頭龍をまつるのが龍口明神社(鎌倉市腰越)です。その後、五頭龍は海を離れ、山に姿を変えました。これが現在の藤沢市龍口山です。そして、天女の天下りとともに出現した島が現在の江の島。天女は江島神社に奉られている弁財天です。」
辺津宮から左に進むと銅板葺きの八角堂・「奉安殿」。ここには、県重要文化財に指定された、戦う姿を現した八臂弁財天と、全裸で琵琶を弾じる有名な裸弁財天・妙音弁財天が安置されている。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せていたという。
実はこの時間に訪れる初詣客の多くは、初日の出を拝むことが主目的らしい。奉安殿から参道から見下ろすと海が見える。まだ真っ暗なのだが、6時近くになると、海岸に向かって、多くの人が良いビューポイントを求めてワサワサと移動を始める。中には小走りの人もいて、不案内な当方の歩幅も、知らず知らず広がっていたようだ。