No.46

12月14日は四十七士討ち入りの日、忠臣蔵の日
忠臣蔵の神社 大石神社(京都府)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

毎年12月14日は高輪の泉岳寺と播州赤穂が賑やかになる。赤穂市の大石神社は大正元年、大石内蔵助良雄はじめ四十七義士を祀り創建された。境内には国指定史跡の大石邸長屋門や庭園、義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿がある。

今回紹介するのは京都市山科区西野山桜ノ馬場町116の大石神社。毎年12月14日は義士まつりが行われる。京都市山科区にあり、旧社格は府社。良雄( 内蔵助) を祀る。1701年(元禄14年)7月から1702年(元禄15年)9月まで良雄が京都に隠棲し、義挙の議をめぐらしたときに居宅を構えた地である。

「主君の仇討ちという大願」を果たした祭神に因み、「大願成就」の神徳で信仰を集める。拝殿の向かいには大石良雄の石像が据えられ、大きな賽銭入れも立てられている。

拝殿

大石神社は赤穂浪士を崇拝していた浪曲師の吉田大和之丞(吉田奈良丸)が、良雄ゆかりの地に神社を創建することを計画し、京都府・市などに熱心に働きかけ、府知事を会長とする大石神社建設会などが設立され、昭和10年(1935)に銅板葺の屋根に千木と鰹木を頂く社殿が竣工した。

18世紀初頭の江戸時代。時は元禄、江戸城松之廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹刑に処せられた。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を取った。これが赤穂事件(あこうじけん)と呼ばれるもので、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品の総称が「忠臣蔵」である。

本殿

大石願掛け

忠臣蔵の神社 大石神社(京都府)

1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件に対する幕府の裁きは、浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたのに比べ、吉良には一切のお咎めがなく、このことが事件の発端となった。家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時頃、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14 日)、内蔵助率いる47人が、堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとったのである。

義士まつりを実行しているのが山科区全13学区の自治連合会と山科区地域女性連合会、山科経済同友会を中心とした山科義士まつり実行委員会で、行列途中の舞台では、東映太秦映画村の協力を得て、「刃傷松の廊下」や「切腹」「連判状改め」「討ち入り」などのシーンを再現する。また幼稚園児による子ども義士隊や女性陣による「大石音頭」、「元禄花見踊り」が華を添える。

境内は2300坪。稲荷山の東麓に位置する。歴史のある神社ではないが、京都の著名な観光寺社に疲れた人には、紅葉した山を背景に、こじんまりした神社の銅屋根が溶け込む姿が、大変好ましいものに映りそうだ。

▲山科義士まつりのポスター
山科義士まつりの行列は、山科の北山麓の毘沙門堂を出発後、西南6キロ先の大石神社を目的地として練り歩く。当日は、参道に多くの屋台が出て賑わい、義士たちは到着すると勇ましく「エイ、エイ、オー」の勝どきを上げる。