No.45

三鷹の森の銅屋根神社 三鷹八幡大神社(東京都)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

一の鳥居、二の鳥居をくぐると、平成23年清水建設設計施工で竣工した堂々たる楼門がそびえる。耐久性を考慮し良質の吉野檜を使用、この屋根も銅板葺きだ。左側面の銘板には「屋根の軒廻りは、総反り(軒全体が反る)・捻れ軒(軒裏全体が軽快に捻じ上がる)・反り出し勾配という高度な規矩術を駆使し、CADによる作図シュミレーションを重ね、最も美しい軒反りと、端正な外観を実現した」と書かれている。

明暦3年(1657)1月18日、江戸本郷の本妙寺から出火した明暦の大火(振袖火事)は江戸市中に甚大な被害をもたらした。折からの強風で、大火となり、江戸城天守閣をはじめ外堀内側のほとんどを焼き尽くし、死者は10万人に達した。

幕府は防火帯確保のため、緊急避難のための仮住宅の再建も許さず、火除地や広小路の整備など防火対策を行ったほか、一方で、被災した人々には郊外への移住も奨励した。神田連雀町の一部住民25人衆とその家族に対しては替地として当地が与えられ、1658(万治元)年に移住し新田開拓を行う。この地名「連雀」は「神田連雀町」に由来し、寛文4年(1664)、連雀村の名主・松井治兵衛は村の年寄・組頭等と連署で「氏神社」の創建を幕府に請願した。時の老中・松平伊豆守は代官・野村彦太夫に検地を命じ、社地約一万坪を除地と定め、鎮守八幡大神社の創建を許可した。

禅林寺の前身の松之坊の隣地に社殿が造営され、後に禅林寺が別当寺となった。現在でも全林寺の丸瓦が楼門内すぐそばまで迫っている。社殿は1725(享保10)年に改修ののち、弘化元年(1844)には再建が行われた。そして神仏分離令後の明治6年(1873)年6月、村社に列せられた。

楼門の脇から拝殿の唐破風の重なりをのぞき込む。雨に濡れた一文字葺きの緑青屋根に、金飾りが映り込む。銅屋根は雨の日が10倍美しい。

本殿の屋根を覆う木の陰や落ち葉。大気汚染だけでなく、これらも緑青の発生に大きく影響する。

全国の八幡神を祀る神社は八幡宮・八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社などと呼ばれ、数としては稲荷神社に次いで全国2位。1万社とも2万社とも言われる。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

三大八幡と呼ばれる神社は、常のごとく諸説あるが、一般には「宇佐神宮(大分県宇佐市)・石清水八幡宮(京都府八幡市)」に「筥崎宮(福岡県福岡市東区)・鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)」のいずれかを合わせた3社とされる。

「三鷹市史」によると現在の社殿は昭和40年9月に新築、更に、平成3年6月、北へ15m社殿を移転した。境内には拝殿・幣殿・本殿を中心に手水舎、社務所、神輿舎などの他、市指定文化財・天然記念物スダジイの巨樹がある。

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。

祭神:應神天皇
社格:旧村社
所在地:東京都三鷹市下連雀4-18-23
JR 中央線 三鷹駅 徒歩15分(バス2駅)