No.44

初の国宝指定洋風建築にして現存する最古の教会堂
大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)(長崎県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

長崎市南山手のカトリックの教会堂。1865年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物で、正式名は日本二十六聖殉教者堂。1953年(昭和28年)に国宝指定。

設計はフランス人宣教師のフューレ、プティジャンの両神父で、施工は天草の小山秀之進。1875年と1879年の増改築により、外観デザインも変容し、外壁は創建時の 木造からレンガ造に変更され、完全にゴシック風の建物になった。そして新たな教会堂は九州初の煉瓦造構造となった。その結果創建当時の外観から大きく姿は変わったが、 内部空間の主要部には創建当初の姿が保存されている。また原爆で被害を受け、1953年、日本最古の現存教会建築として文化財保護法に基づき国宝に再度指定された。

建物に使用された銅板は、塔の屋根と瓦葺き屋根の樋だけである。しかし鐘楼の段葺き銅板屋根は、厚みの有る段葺きで丁寧に施工されている。また樋のほうも施設の関係者によると、台風の度に出入りの板金職が手直しをしているそうだ。どちらも丁寧な仕事だ。

大浦天主堂は、開国の後、日本各地に西洋人の指導で建設された教会堂の代表例であり、こののち長崎各地に教会堂が建設されていく起点になった重要な教会建築とされている。2007年には建立当初の設計図がパリ外国宣教会本部古文書局に保管されていた資料の中から発見され、設計図では、瓦葺き屋根、洋風窓で、会堂や廊下などの列柱の位置も現在と同じであることが確認されている。

天主堂は、殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、正面は殉教の地である西坂に向けて建てられている。坂の下から正面を見ると、まず緑青の塔屋根が目に入り、まっすぐ視線を下ろしてゆくと「天守堂」の文字がはっきり読み取れる。これは、創建当時から掲げてあるものだ。

天主堂の解説によれば「もともと大浦天主堂は、外国人居留地に住む外国人のために建てられたカトリックの教会堂であり、そもそも大浦天主堂が建てられた頃は、キリスト教は禁教であり日本人信徒はいなかったはずだ。にもかかわらず日本語の文字が掲げてあった。それはローマ教皇庁が日本での再布教を願って、開国後、聖地である長崎に26 聖人に捧げる新しい聖堂を設立して布教を再開し、日本人信徒を再発見することを望んでいたため、とみられる。『天主堂』という日本語の文字は、ひょっとしたら存在するかもしれない日本人信徒へのメッセージだった」という訳だ。そして願いに応えるかのように隠れていたキリシタンが発見された。そんな様子(以下)も詳しく書かれている。

現在キリシタン資料室として開放されている旧羅典神学校

銅製の軒樋、竪樋、這樋、いずれも日本家屋ではありえないバランスで、がっちりしたものが取り付けてある。

天主堂の右奥に建つ木造三階建ての建物で、キリスト教禁令廃止をきっかけにプチジャン神父が日本人聖職者育成目的に設立した神学校である。素朴で西欧建築技術をふんだんに取り入れた実用的な造りである。

旧羅典神学校

大浦天主堂創建から約1ヶ月後の3月17日、約250年という長い期間、表面は仏教徒を装いながら内にはキリストへの厚い信仰をもって潜伏していた浦上の信徒達がやって来た。そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前へ導いたのだという。世界宗教史上、類まれなこの出来事を見守ったこの像は以来『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになり、今も右側の脇祭壇に飾られている。また、入口中央に置かれているマリア像は、日本に数多くの信徒達がいたというビッグニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもの。