No.32
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
櫛田(くしだ)神社は博多総鎮守。中殿に大幡主大神、左殿に天照皇大神、右殿に素盞嗚大神(スサノオノミコト)を祀る。770年の伝統を誇り、全国的に知られる博多祇園山笠は、櫛田神社の祇園神(素盞嗚命)に対する氏子の奉納神事(重要無形文化財)である。
大幡主大神は天平宝字元(757) 年に鎮座し、素盞嗚大神は天慶四(941)年、素盞嗚大神は天慶四(941)年、藤原純友の反乱の鎮圧に当たった小野好古が神助を祈願し山城(京都)祇園社から勧請した。天照皇大神については、「古くて記録にない」という。
中世、兵火に遭って度々、荒廃したが、天正15年(1587)、豊臣秀吉が博多町割(復興)の実施とともに現社殿を建立、寄進した。古来、商売繁盛、不老長寿の" お櫛田さま" として信仰を集めている。
平成12年(2000) の「第48回式年遷宮」では本殿、拝殿の改修工事、回廊を新設、平成19年(2007) の「千二百五十年祭」で本殿、拝殿の屋根の葺き替えなどを実施した。
毎年博多山笠は7月1日の「注連下ろし」から、15日の「追い山」までの15日間に300万人の見物客でにぎわう。最大の見どころ「追い山」の15日には90万人にも達する。インコース内壁になる櫛田神社の鳥居や、塀の角には俵の防御クッションが取り付けられる。
本殿, 拝殿、末社、社務所喉ほとんどの境内の建物は銅板の一文字葺き。大都会の中心部のさほど広くない敷地にギュッと詰まった、密度の濃い神社という点で、大阪天満宮と似た雰囲気を持つ。下地や飾りの彫り物の見事さ、繊細さに比べて、屋根の仕上がりが追い付かないという意見もあるようだが、山笠・生活への密着度の面で、また激しい追い山の舞台となる神社であることから、必要にして十分な仕上がりとも納得できる。
向拝の唐破風の下に、兎、龍、獅子たちが舞う。
唐破風の下、懸魚の左右など妻飾りのレリーフは繊細で美しい。
博多祇園山笠の由来について諸説がある中で、同振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二年(1241)、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ。この1241年を起源とすると、2017年の今年は776回となる。
鎌倉、室町から戦国時代。博多の町は大陸貿易の基地として栄え、それが故に戦国大名、豪族の争奪の場となって焼け野が原と化した。その復興を命じたのが豊臣秀吉である。
山笠は、古くは高さ15 メートル前後のものをゆっくりと舁(か)いていたが、「櫛田社鑑」によると、貞享四年(1687)正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町(土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけて一触即発に。この場は何とか収まったが、夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走り、これが評判を呼び、「追い山」に発展したという。
もっとも有名なのが風神雷神。境内の解説によれば「博多で暴風雨を起こさんとする雷神が太鼓を叩いて風神の応援をもとめるも、風神は氏子の切なる願いを聞き入れて博多では災害はおこさないよ、として遁走している様を拝殿破風にて彫られている。」博多は古代から大陸(中国・韓国)に開かれ、経済・文化交流の窓口として発展してきた。中でも「博多部」と呼ばれる中心部はJR博多駅の北側、博多川ト御笠川(みかさがわ)に挟まれたエリアである。碁盤の目状の街並みは、戦乱で荒廃した博多復興のため豊臣秀吉の命により実行された、太閤町割によるもの。
博多塀。
昭和20年(1945)太平洋戦争の大空襲で、町の大部分は消失したが、博多塀や、樹齢1000年の大イチョウ、はじめ焼け残った神社仏閣などの旧跡が、江戸、奈良・京都とは一味違った歴史や、文化を感じさせる。