No.31
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
筑波山神社は筑波山を境内とした、古代山岳信仰に始る古社である。男体山頂(871m)に筑波男大神(イザナギノミコト伊弉諾尊)を、女体山頂(877m)に筑波女大神(イザナミノミコト伊弉冊尊)を祀っている。 山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、ここから山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する形が今も維持されている。
随神門は寛永10年(1633)三代将軍家光が寄進した間口五間二尺の八脚楼門である。2度の焼失を経て、文化八年(1811)再建され、県内随一の規模の楼門となった(県指定文化財)。
昭和54年5月御本殿御造営奉賛会を結成して、境内の多くの建物の改修工事が行われた。隋神門の屋根はその百年前に亜鉛板で仮葺きされたままであり、この時を機に銅板の一文字葺きで改修された。
楼門をくぐり、階段を見上げると、巨大な屋根に度肝を抜かれる。巨大と言っても物理的に大きいわけでもない。
鈴の大きさにも驚くが、それよりドッキリするのは本葺きの銅板屋根の強烈な存在感だ。単に太い、輪郭が濃いわけではない。瓦棒のピッチが違うのか、と思うほどくっきり野太い。太ゴジック体文字、文楽人形の眉のような印象だ。
キリリと力強い下り棟と隅棟のライン。
降り棟の鬼板も留め蓋も極めてシンプル。
背面の入母屋破風は質素に平葺きで処理。
ダイナミックな棟仕舞い
妻側の千木
拝殿の手前が参集殿
手前から瓦葺の社務所、参集殿、拝殿。
左上が拝殿から参集殿への渡り廊下。手前は参集殿の裏面。
社の記録によれば、拝殿が造営されたのは神仏分離令が発せられた7年後の明治8年。その後昭和3年に「文部省故社寺保存課安間立御雄技手の設計管理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造に改修された」とあるから、この屋根表現は彼の意図によるものかもしれない。
拝殿の手前が昭和57年に新築された参集殿。唐破風付きの裳階屋根。銅板葺入母屋造りである。参集殿の屋根も丁寧な仕事だが、比べると奥の拝殿の彫りの深さがよくわかる。
神橋
寛永10年(1633)に三代将軍徳川家光が寄進し、元禄15年(1703)に五代将軍綱吉が改修したもの。軒先の装飾や、虹梁上の蟇股(かえるまた)に、安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。境内社の厳島神社と共に杮葺(こけらぶ)きである。桁行4間、梁間1間の切妻造、妻入りの反橋。
神橋
右から日枝神社、春日神社、拝殿
日枝神社の妻側
筑波山神社境内社 厳島神社本殿
筑波山神社境内社 厳島神社本殿
これも寛永10年(1633)に三代将軍徳川家光が寄進した。本殿は方一間、妻入正面に向拝を設けた春日造。
春日神社、日枝神社両社拝殿
寛永10年(1633)に三代将軍徳川家光が寄進。春日神社、日枝神社両社拝殿は両本殿の中央前面に建っている。桁行6間、梁間2間、入母屋造で正・背面中央に軒唐破風。春日神社の屋根裏から寛永10年の墨書が発見され、建立年次が確定された。
いずれも本殿は桁行2間、梁間2間の同形同大の三間社流造。向拝中央の蟇股は春日神社が鹿、日枝神社が猿の彫物で構造形式は全く同じ。日枝神社中央の蟇股に「見ざる、言わざる、聞かざる」の3申が見える。東照宮の有名な3申のための習作と言われている。
本稿を入校した後、ある職人に拝殿の写真を見せたところ、「瓦棒が半丸ではなくてほぼ丸まで上げてある。向拝箕の甲が3段に細かく葺かれているので重ね葺きじゃないかなあ」と指摘した。やはり、これが彫りの深さを感じさせた理由だろう。
老職人は「いい時代に葺き替えしたねえ」とため息まじりにたばこの煙を吐いた。昨今は文化財と言えど、十分な予算が取れず、満足な仕事がさせてもらえないことが多いそうだ。