No.28

金赤の稲荷は今や世界的観光名所
伏見稲荷大社(京都府)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

全国に約 3万社あるといわれている稲荷神社の中で「伏見稲荷大社」は総本宮にあたる。 古くは朝廷が雨乞いや止雨と共に五穀豊穣を祈り、国の安穏を願ってきた。
「母大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する」、と記した秀吉の"命乞いの願 文" も伝来している。秀吉の願いは叶い、現在の楼門が建立された。 さらに時代が下って商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰を集め、今日にいたっている。例年三が日で250万人以上の人が参拝し、初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集め る。

外国人に絶大な人気の千本鳥居。不思議空間での記念写真撮影で渋滞が激しく、一方通行になっている。

なぜ「お稲荷さん」には鳥居がいっぱいある? という質問に、同社のHPは…願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果です。現在は約 1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っています…と答えている。

明治時代以前より京都の町々には、必ずといってよいほど、お地蔵様が祀られてきた。8 月の地蔵盆は京都にはなくてはならない年中行事である。

伏見稲荷大社

江戸では京都の地蔵尊と同じくらいお稲荷さんが祀られている。「伊勢屋稲荷に犬の糞」などと、はやされるほどだったとい う。

檜皮葺きの楼門。

檜皮葺きの楼門。

檜皮葺きの楼門は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきた。昭和48年に楼門の解体修理が行われ、願文の年次と同じ「天正17年」の墨書が発見され、伝承の正しかったことが確認された。
神社の楼門の規模としては最大級である。ど派手な木部の丹塗り、金銅の飾り金物。これらと檜皮の屋根をうまく繋いでいるのが軒樋の緑青だ。青い水平線の位置とカーブを決めるのは設計者や職人のセンスである。軒先のラインに添わせるのもよし、機能本位に水勾配を雨落としに向けて採るのもありだ。こ のように屋根の曲線とバランスを保つのは難しい。

本殿の北面。

本殿南面。左が内拝殿の銅屋根。右側が檜皮葺の本殿。

本殿裏でお参りしている人がいる。よく見ると中央の金の竪樋の下に何かある。本殿裏の金の樋の下の賽銭箱。 なるほど裏からのお願いの方が効きそうだ。

お山に続く鳥居道。1万本の「千本鳥居」。すべてに銅の笠木が付くわけではないが、その面積はかなりなものになる。鳥居の奉納はサイズにより 17万5千円から130万円まで。

銅板の一文字葺き。経の巻の先端は金箔。

両側の屋根から流れる雨を受けるのがこの金の雨樋。 檜皮に比べて銅板葺き屋根を流れる 水量は格段に多い。 金箔張りの銅板樋がそれを受ける。 正面から少しずつ裏に回るに連れて、役物が派手になってくるのが面白い。

本殿裏の金の軒樋。

稲荷の神は帰化豪族である秦氏と深い関係にある。山城国風土記には五穀をはじめすべての食物や養蚕をつかさどる神で稲(イネ)生り(ナリ)からイナリ、神像が稲を荷ってところから稲荷の字があてられた。

創建は和銅4年。藤原京から平城京へ都が移った翌年だ。伏見稲荷大社附属講務本庁が発行する広報誌季刊「大伊奈利」の創刊200号記念誌に、上田正昭京大名誉教授が「伏見稲荷大社の創建と信仰」という原稿を特別寄稿しており、その中で次のように述べている。

…遷都の詔は元明天皇(天智天皇の第4皇女)によって和銅元年(708)2月25日に出された。…和銅という 年号は、慶雲五年(708)の正月11日に、武蔵国秩父郡 (埼玉県秩父市)から和銅(自然銅)が献上されたので「慶雲五年を改めて和銅元年」とする詔が宣せられたのにもとづく(続日本紀)…」

本殿裏の権殿。檜皮葺きに、銅の棟包みとシャープな樋。奥の鳥居の笠木はもちろん銅板。

能舞台(神楽殿)

社務所。 普通なら派手な金の錺金物もここではシックに見える。

外拝殿。右奥は楼門。いずれも檜皮葺、銅板の棟包み。

 

千本鳥居の先、熊鷹社の銅板屋根と魅力的な樋の引き回し。

この内拝殿は昭和35年に新造されたもので、内拝殿造営に際して本殿の唐破風向拝を内拝殿に移設した。

 「現在の本殿は明応八年(1499)の建造にかかり、天正十七年、豊臣秀吉の修理を経てお り、稲荷造と呼ばれる檜皮葺き五間社流造、五十六坪(185㎡)余である。内拝殿新造に際 して向拝大唐破風をその正面に移し、本殿を明応造営当時の姿に復元した。(吉川弘文館国 史大辞典より)」

先の「大伊奈利」200号にかつての本殿の写真が掲載されており、こんな説明が書かれている。
…社記には「御本殿五社相殿ウチコシナガシ作四方ニ高欄有ケタ行五間五尺ハリ行五間五尺」とあり「稲荷造」と称されている。応仁2年(1468)の兵火で、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようで、その後諸国へ勧進が行われ、明応8年(1499)にようやく再興された。社殿建築としては大型に属し、装飾、特に"懸魚"の金覆輪や"垂木鼻"の飾金具、それと前拝に付けられた"蟇股"等の意匠に安土桃山時代へ向かう気風がみなぎり、豪放にして優華な趣をただよわせている。… 京都市内にある神殿建築としては最も古い。