No.14

リズミカルな屋根を彩る緑青瓦と金鯱

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

国内に残る城の中に、かつては杮葺(こけらぶき)の屋根を持つ天守(てんしゅ)もありましたが、現存する天守の屋根はほとんど瓦で葺かれています。

リズミカルな屋根を彩る緑青瓦と金鯱

天守の屋根に金属を使うのは、関ヶ原の合戦以降になります。信長は安土城天守の軒先瓦に漆で金箔を貼った「金箔瓦」を使用しています。銅を本格的に使ったのが家康で、当時金箔瓦より高価であった銅瓦を江戸城、名古屋城に用いました。

名古屋城築城にあたって、豊臣恩顧の前田利常、加藤清正ら西国の26大名が動員されました。天下普請により慶長15年(1610年)に着工しています。「日本の名城・古城辞典(奈良本辰也ほか)」によると「本丸天守閣は五重五層で、連結式構造の代表的なもの。小天守石塁とは橋台で結び、天守閣の石垣は扇勾配で雄大な稜線を描き、見事な美しさである」と讃えられていました。

最上重(じゅう)には名古屋の象徴である金の鯱(シャチ・シャチホコ)。

入母屋破風(はふ)、軒唐破風(からはふ)、千鳥破風、比翼入母屋破風、がリズミカルに重なる。

しかし第二次世界大戦の空襲で炎上し、現在の天守は残念ながら創建時のものではなく、昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。とはいっても外観は原型通りであり、黄金水とよばれた地下の井戸も昔のまま残っているそうです。屋根の銅瓦は木製の屋根瓦に0.5mmの銅板を張り付けたものでした。

戦時中、「名古屋城の屋根は銅葺きだから焼けない」といわれていましたが、たまたま金鯱を避難させるために組んでいた足場に焼夷弾が命中して燃え広がり、金鯱も焼失してしまいました。

城内に展示された天守の模型。屋根のフォルムの美しさが良くわかる。

銅瓦は家康の隠居城として築かれた駿府城の天守(1607 ~ 8年頃)に初めて用いられたといわれています。 その後、家光の築いた江戸城天守や徳川秀忠による大坂城天守等に採用されています。名古屋城天守の場合は江戸時代の中期(1752年)になって土瓦から銅瓦に葺きかえられ、2重から上、5重まで銅瓦で葺かれています。現在の天守は昭和の復元によるものです。日本の城で創建時の銅瓦が現存するのは、青森県の弘前城天守だけだそうです。

現在の鯱と同寸の石膏模型。

名古屋城といえば、これでしょう。「鯱」。
「しゃち」とも「しゃちほこ」とも読まれます。天守の大棟の両端に向かい合わせで飾られます。頭が虎で体は魚という架空の霊獣で火災から建物を守ります。初代の鯱は慶長17年(1612年)の生まれ。慶長大判1940枚分の金の板が使われ、現在の価格では20億円相当といわれています。

なだらかなムクリ。グレーの瓦葺きによるラインも魅力的だが、緑青で切り取られた桜と深い緑も別の趣きがある。

緑青の下がり棟を滑り降りれば、満開の桜にダイビング

信長、秀吉から徳川に至る歴史の中で、銅の加工は容易ではありませんでした、にも関わらず社寺仏閣や城郭には、かなりの銅板が使用されました。それは耐火・軽量という機能面に加えて、新築時の輝きと経年による緑青への憧れ、また何より権力と財力の誇示だったのです。