銅屋根クロニクル

No.106

三大弁才天の筆頭・「大弁才天」を祀る
竹生島神社と宝厳寺(滋賀県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

宝厳寺の国宝唐門(左)からはいり、舟廊下と呼ばれる重文の渡り廊下(中)を進むと、そのまま国宝の竹生島神社の本殿(右)に続く、という不思議な場所。弁材天を祀っているのに寺。神仏習合が色濃く残っている竹生島ならでの景色である。

宝厳寺の国宝唐門

宝厳寺の舟廊下

竹生島神社の本殿

舟廊下の途中に「これより先宝厳寺」の文字。手前は竹生島神社本殿。2013年に撮影した時は、危機的状況だった屋根は、2020年の改修工事を終え、見事によみがえった。残念ながら竹生島を代表する国宝建築の屋根の主役は檜皮で、銅板はその唐破風の水切や樋によって、檜皮葺きの屋根の姿を引き締めている程度だ。

しかし、渡り廊下の屋根の腐食防止のため一定間隔で檜皮の間に挟まれた銅板は、重要なアクセントになっている。下の写真は改修前のもので、この工法の効果に関しては諸説あるが、今回は踏襲されたようだ。デザイン上も緊張感があり、マニアックな楽しみの一つである。

銅屋根が主役を演じるのは、宝厳寺の本堂である辨天堂でもなく、三重塔といくつかの社の屋根のみ。

聖武天皇の勅願により、行基が竹生島に来島し弁才天像を造り小堂に安置したのが、この寺の創始と伝えられていて、国内弁才天の中で最も古く、そのため厳島・江の島とは違って「大」が付くのだ、と言われている。「日本三大○○・五大○○」の常で、どれを推すかについては諸説ある。三大弁材天として江ノ島でなく奈良吉野の天川大弁材天社の弁材天像を選ぶ声もある。

弁材天はもともと古代インドの神で,梵名(サンスクリット語)では「サラスバティ」。意訳すると「妙音楽天」。梵天の妃。言語、文字の発明者、音楽の神、弁舌才智の神、のちに財福の神とされ、弁財天と書かれることも多くなった。本来は水の神であり、せせらぎの音から音楽の神、転じて弁舌の神になったという。仏教とともに伝来し、徐々に全国の神社の神と習合していった。その最初が竹生島であった(「天川」駸々堂S.51 林屋辰三郎ほか)というわけだ。

本尊の弁才天を祀る檜皮葺きの本堂(弁天堂)

雨宝堂

国宝の拝殿は琵琶湖に面し、突き出した所に竜神拝所がある。

龍神拝所のかわらけ投げ。鳥居をくぐれば願いがかなう。

竹生島は日本有数のパワースポットとされるが、その中心が黒龍堂。

竹生島(ちくぶしま)は長浜港、彦根湊、今津湊から観光船で30分前後の所に浮かぶ周囲2kmの小島。島内には宝厳寺と都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)=[竹生島神社]宝厳寺は、724年聖武天皇が夢枕に立ったアマテラスオオミカミのお告げを受け、開基させたのが始まり。国宝の宝厳寺唐門や都久夫須麻神社本殿、重要文化財の宝厳寺船廊下などの見どころも多い。宝厳寺の本尊大弁才天、また観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として参拝者の姿が絶えない。弁天様の幸せ願いダルマや竜神拝所の土器(かわらけ)投げも人気である。

明治時代、『神仏分離令』によってこの島も大きく変化し、宝厳寺から都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれた。古来、現在の神社本殿は宝厳寺の本堂とし、本尊大弁才天を安置していたが、明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』とそれに起因して過激化した「廃仏毀釈」運動の影響を受け、明治4年、大津県庁より、宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという命令が下る。しかし、全国の信者要望により廃寺は免れたものの、本堂の建物のみを神社に引き渡すことになる。唐門観音堂、舟廊下、本堂と連なる一連の建物のうち一部のみ神社の本殿となったわけで、これが現在の不思議な構造の原因となっている。本堂のないままに仮安置だった大弁才天は、昭和17年、現在の本堂が再建された。

上の境内配置図は宝厳寺のものだから、竹生島神社の姿はない。図の右下、寺の唐門、寺の唐門・観音堂・船廊下の先、右手の木に隠れて、屋根だけ描かれているのが、かつての宝厳寺の本堂、現在の竹生島神社本殿である。
 「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)」「宇賀福神(うがふくじん)」「浅井比売命(あざいひめのみこと)」「龍神(りゅうじん)」が祀られている。

ところで、竹生島大弁才天は宝厳時の本尊であるのだが、毎年6月10日には江ノ島神社 、厳島神社から分霊と神官を招いて、竹生島神社の神事として三社弁才天まつりが華々しく斎行される。今でもしっかり習合しているのである。

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