No.104
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
東叡山寛永寺不忍池辯天堂。1625年、江戸幕府は、都の鬼門を守る比叡山延暦寺に対応させ、江戸城の北東に位置するこの地に寛永寺を建立した。(ちなみに裏鬼門には増上寺。)家康の信頼厚く、徳川3代に渡って幕府の顧問役として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し権勢をふるったのが、寺の開祖である慈眼大師天海。家康の没後、秀吉が選んだ大明神ではなく「権現」として祀ったのも天海である。
辯天堂は上野公園南側にある不忍池の辯天島(中之島)に築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。
天海は、中世・鎌倉時代以降流行った、「見立て(うつし)」手法を用いて、忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ辯天島(中之島)を築き、竹生島の宝厳寺の辯才天を勧請して辯天堂を建立した。当初辯天島は船で渡る島であった。しかし1672年に辯天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまったが、辯天堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には児玉希望(画家・芸術院会員)による龍の天井絵が奉納されている。



見立ての規模は、かなり本気度が高い。
寛永寺建立にあたり、さまざまな堂宇を京都周辺の神社仏閣に見立てた。例えば「寛永寺」という寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことによるが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」の見立て。天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立した。寛永寺の正式名称は東叡山寛永寺、であり、寛永寺の境内に清水寺を模した清水観音堂を建立した

のも京都の風景を模したことによる。清水観音の舞台から、歌川広重も浮世絵に描いた、辯天堂の屋根が松越しに見える。
天海僧正は、この地を江戸庶民の行楽地にすることを狙っていたようで、その作戦は大成功だったようだ。
辯天堂に祀られる本尊は「辯才天」。音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利益があり、琵琶を持った姿で知られている。辯天堂の辯天は八本の腕があり、手に手に煩悩を破壊する道具を意味する武器を持つ「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」だ。ご開帳は年に1日、9月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」の日。