銅屋根クロニクル

No.100

社寺・城郭・近代建築 1~99の銅屋根仕事

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

銅屋根クロニクルの第1回掲載は、「施工と管理」2013年 2月号(No.302)「瓦を下した正倉院正倉(しょうそう)」でした。正倉の屋根は、薄く削いだサワラの土居(どい)葺きを下葺きとし、瓦を載せたものです。銅板の出番はないはずですが、すべての瓦を下した屋根のあちこちに銅板や金物が表れています。

正倉の根太の鼻先にまかれた銅板は創建時にはなかったものですが、今や正倉の意匠上、重要な役割を果たしています。2012年の100年ぶりの大改修工事で、瓦がすべて下され、今まで見えなかった正倉の各所で銅板の使用が確認されました。もちろん創建当時のものではなく、早いものでも元禄時代、棟覆いや丸環(写真)は100年前の大正大改修の時代と思われます。校木の隙間のベローズシールのような小さな銅板は恐らく、大正時代以降でしょうが、その時期を特定できる記録はありません。

正倉院など国宝や重文に限らず「文化材修理の基本は、創建時の状態を尊重し、新たな改変は極力避ける」という考え方です。今回の修理においても再利用可能な瓦は葺きなおされます。割れて使えない瓦も多く、今回は半数以上が新たに製作されます。そのとき参考にするのは創建時である天平時代の瓦です。

今、たまたまこういう形になっているけれど、創建時からそうだったという保証はありません。個々の部材や納まりに関しては、誰か応急処置として行った可能性の方が高いと思われます。正倉の棟を覆った銅板や、校倉の隙間の銅板は誰がいつ指示したのか、練りに練った改修計画に基くものなのだろうか、雨漏りで困って、とにかく緊急に対処したのだろうか。そしてどんな思いで施工したのだろうか。正倉院といえば校倉。その荘重な正倉の校木の隙間に詰め込まれた石膏や銅板、青銅の丸環などを見ながら、当時の職人たちの工夫をあれこれ想像しながら建物の細部を見るのは、実に楽しいことです。

この記事をきっかけに、全国の建築の銅板葺き屋根の美しさ、屋根職人の丁寧な仕事を、毎号1~2ページ、時に3ページで紹介してゆこうという本企画がスタートしました。2回は大阪城、3回は築地本願寺と続き、これまで寺院18件、神社42件、城郭4件、近代建築28件、その他4件を紹介しています。このうち日本初の銅板葺き屋根とされる西大寺、またサザエ堂、祇園祭の大船鉾などは、番外編・特別編とし、HP上では「あの屋根この屋根」として別枠としました。タイトル通り屋根ふき材は基本的に銅板ですが、鉛板葺きも、金沢城、瑞龍寺、東京ジャミーの3物件も取り上げています。

諸般の事情により、やや地域的な偏りがあったため、今後は地域漏れなく、また銅板葺きの国宝・重文建築は順次紹介したいと思います。

銅屋根クロニクルで紹介した建物が表紙を飾ることも、時々ありました。

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